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最高裁判所大法廷 昭和27年(あ)2868号 判決 1953年7月22日

主文

原判決及び第一審判決を破棄する。

被告人を免訴する。

理由

裁判官真野毅、同小谷勝重、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎、同入江俊郎及び裁判官井上登、同栗山茂、同河村又介、同小林俊三の意見は、本件は原判決後に刑が廃止されたときにあたるとするにあるから、刑訴四一一条五号、四一三条但書、三三七条二号により主文のとおり判決する。

裁判官田中耕太郎、同霜山精一、同斎藤悠輔、同本村善太郎は反対意見である。

裁判官真野毅、同小谷勝重、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎、同入江俊郎の意見は次のとおりである。

弁護人上田誠吉の上告趣意第三点について。

昭和二〇年勅令第五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものである。世人周知のごとく、わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に対して無条件降伏をした。その結果連合国最高司令官は、降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し、この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることとなった(降伏文書八項)。また、日本国民は、連合国最高司令官により又はその指示に基き日本国政府の諸機関により課せられるすべての要求に応ずべきことが命令されており(同三項)、すべての官庁職員は、連合国最高司令官が降伏実施のため適当であると認めて、自ら発し又はその委任に基き発せしめる一切の布告、命令及び指令を遵守し且つこれを実施することが命令されておる(同五項)。そして、わが国は、ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること約すると共に、右宣言を実施するため連合国最高司令官又はその他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且つ一切の措置をとることを約したのである(同六項)。さらに、日本の官庁職員及び日本国民は、連合国最高司令官又は他の連合国官憲の発する一切の指示を誠実且つ迅速に遵守すべきことが命ぜられており、若しこれらの指示を遵守するに遅滞があり、又はこれを遵守しないときは、連合国軍官憲及び日本国政府は、厳重且つ迅速な制裁を加えるものとされている(指令第一号附属一般命令第一号一二項)。それ故連合国の管理下にあった当時にあっては、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているものと言わねばならぬ。すなわち、連合国最高司令官は、降伏条項を実施するためには、日本国憲法にかかわりなく法律上全く自由に自ら適当と認める措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施せしめることを得たのである。

かかる基本関係に基き前記勅令第五四二号、すなわち「政府ハポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ連合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為、特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」といふ緊急勅令が、降伏文書調印後間もなき昭和二〇年九月二〇日に制定された。この勅令は前記基本関係に基き、連合国最高司令官の為す要求に係る事項を実施する必要上制定さたものであるから、日本国憲法にかかわりなく憲法外において法的効力に有するものと認めなければならない。(昭和二四年(れ)第六八五号、同二八年四月八日言渡大法廷判決参照。)

本件で問題となっている昭和二五年政令三二五号「占領目的阻害行為処罰令」(以下政令三二五号という)は、その前身である昭和二一年勅令三一一号「連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」と共に、前記勅令五四二号に基き「連合国最高司令官の為す要求に係る事項を実施する為」制定せられた命令(以下ポツダム命令という)であって、その制定当時においてはこれまた前同様に憲法外における法的効力を有するものと言うべきである。本件に必要な関係を有する範囲においては、政令三二五号は「占領目的に有害な行為」をした者に対して刑罰を科する罰則を設けたものである。そして、その「占領目的に有害な行為」の実質は、一般的・概括的な規準に従って解釈上定められると言うのではなく、この政令自体の中において「占領目的に有害な行為」とは、(イ)連合国最高司令官の日本国政府に対する指令の趣旨に反する行為、(ロ)その指令を施行するために連合国占領軍の軍、軍団又は師団の各司令官の発する命令の趣旨に反する行為、及び(ハ)その指令を履行するために日本国政府の発する法令に違反する行為をいう、と列挙的・限定的に定められているのである。そこで、原審の認定した本件の事実関係は、前記(イ)連合国最高司令官の日本国政府に対する指令の趣旨に反する行為をなし、占領目的に有害な行為をなしたというのであった。それ故、ここでは政令三二五号をこの指令違反の点に限局して論述することとする。

この政令三二五号の罰則は、その犯罪行為の実質的内容を政令自体において直接的・自給自足的に特定することなく、いわば抽象的な形式的内容に過ぎない「連合国最高司令官の日本国政府に対する指令の趣旨に反する行為」という表現をもって、ただ間接的・他依存的犯罪行為の実質的内容を特定し得べからしめたものに過ぎない。言いかえれば、まず連合国最高司令官の指令の存在とその内容を探究することによってのみ、間接的に政令三二五号の犯罪構成要件の具体的な実質的内容は、初めて特定せられ明らかならしめられるものである。そして、この罰則は、単に連合国最高司令官の発した指令の趣旨に違反する行為を処罰することとしているのであって、その指令がいかなる事項に関するものであるか、またその指令がいかなる内容のものであるか、等については、何等の制限をしていない極めて広範なものである。すなわち、網羅的にすべての指令違反が処罰の対象とされているわけである。この連合国最高司令官の指令が誠実に遵守せらるべきことは、すでに冒頭において述べたとおり降伏文書及び一般命令においても特に明定されているところであり、占領という特殊な状態において、最高司令官がその意思を実現し、その権威を発揚し、もって占領目的を達成するがためには、最も必要な前提要件であり、また最も大切な基盤であると言わねばならぬことは多言を要しないところである。それ故に、この要件を充実し、この基盤を完成するためにこそ、そしてそのためにのみ政令三二五号及びその前身である昭和二一年勅令三一一号は定められたと見るべきである。かくて、この罰則は、その本質において全く最高司令官の占領目的達成のための手段たるに過ぎないものであるから、占領状態の継続ないし最高司令官の存続を前提としてのみ、その存在の価値と意義を有するに過ぎないものと言うべきである。別の言葉でいえば、この罰則は、その本質上占領状態の終了従って最高司令官そのものの解消と共に、当然その効力を失うべきものであると言わなければならない。

さて、昭和二七年四月二八日「日本国の平和条約」は、その効力を発生し、日本国と平和条約を締結批准した各連合国との間の戦争状態は終了し、平和は克復せられ、連合国の占領は撤廃せられ、「日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権」は承認せられ、もってわが国は独立国家の地位を恢復したのである。かくて、平和条約発効後においては、「占領」がないのであるから、「占領目的に有害な行為」が発生存在する余地がないのは当然である。また、「連合国最高司令官」は解消したのであるから、「連合国最高司令官の指令」が発生存在する余地もなく、したがって「連合国最高司令官の指令違反行為」が発生存在する余地がないのも当然自明の理である。それ故、指令違反を処罰する政令三二五号は、前にも述べたとおり平和条約発効後においては、その効力を保持する余地がなく、当然失効したものと言わなければならない。

ただ、昭和二七年法律八一号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(平和条約発効の日である昭和二七年四月二八日施行)は、昭和二〇年勅令五四二号を廃止すると共に、「勅令五四二号に基く命令は、別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、この法律施行の日から起算して百八十日間に限り、法律としての効力を有する」と規定している。ついで、昭和二七年法律一三七号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く法務府関係諸命令の措置に関する法律」(昭和二七年五月七日施行)は、政令三二五号を廃止すると共に、「この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」旨を規定した。一般にポツダム命令は、前記法律八一号により平和条約発効と同時に原則として「法律としての効力を有する」と定められたのであるから、いやしくもその内容が憲法の規定に違反していない限り、平和条約発効後においても効力を持続すると見るべきであるが、政令三二五号の罰則は、他の一般ポツダム命令のごとくその命令自体において犯罪行為の実質的内容を具体的に特定したものではなく、前に詳しく述べたように単に最高司令官の指令違反を犯罪とし処罰するのであるから、その本質上平和条約の発効と同時に当然失効するのである。平和条約発効と同時に政令三二五号に法律としての効力を与え--従来現存する各指令の内容そのものに法律としての効力を与えたのでなく--単に指令違反を犯罪とし処罰することを定めるのは、法律の内容として現実に不可能なことを定めるものであって結局憲法に違反するわけである。したがって、前記法律八一号の制定されたことは、平和条約発効と同時に政令三二五号が当然失効することを妨げるものではない。(もし前記法律八一号の立法が、従来現存する各指令の内容そのものに対して法律としての効力を与えたものならば、各指令の内容について一々憲法適否の審査をする必要があるが、同立法は他の一般ポツダム命令に対すると同様に政令三二五号に対しても、ただ単にその政令の内容すなわち指令違反行為そのものの処罰に法律としての効力を与えたに過ぎないものであって、各指令の内容そのものに対して法律としての効力を与えたものではないから、一々指令自体の内容について憲法適否を審査することを要しないし、また当該指令の内容の憲法適否にかかわりなく、前に述べたとおり指令違反を処罰せんとする限りにおいて前記法律八一号は違憲無効である。)

かように、政令三二五号は、昭和二七年四月二八日平和条約発効と同時に失効したものであるから、右失効後昭和二七年五月七日に施行された前記法律一三七号が、右失効前になされた行為に対しても罰則の適用につき従前の例によると定めたものとすれば、すでにひとたび失効して効力のなくなった政令三二五号の罰則をさらに復活させて、事後において過去の行為に遡及適用せしめようとするいわゆる事後立法ということになり、憲法三九条の趣旨に違反し無効であると言わなければならない。

なお、政令三二五号は、平和条約の発効と同時に効力を失うべきものとしても、同令は占領下の臨時的必要に対処するため制定された臨時立法であるから、いわゆる限時法的性格を有し、その失効後も行為当時の同令を適用して処罰すべきであるとの見解をとる者がある。しかしながら、政令三二五号は、前にも述べたように占領という特殊な状態において、連合国最高司令官がその意思を実現し、その権威を発揚し、もって占領目的を達成するための手段として制定されたに過ぎないものであるから、占領下に同政令において違法とされた行為の違法性及び可罰性は、占領終了と共に当然消滅するものと言わなければならぬ。すでに占領が終了し、日本国が独立を恢復し、日本国憲法が完全な支配を及ぼすに至った今日において、占領下における最高司令官の指令に違反した行為を処罰すべきであるとすることは、占領終了の後においても、なお最高司令官の権威の存在を認め、その指令の効力の存続を承認し、「占領目的に有害な行為」の持続を是認しようとするものであって、かくのごときは到底憲法の容認しないところというべきである。されば、憲法違反の故に失効した罰則を、限時法的理論によって存続せしめようとする見解の誤りであることは明らかである。

そこで、本件についてみるに、原審の適用した罰則である政令三二五号は、平和条約発効と同時にその効力を失ったのであるから、犯罪後の法令により刑が廃止された場合にあたるものとして、被告人に対し免訴の言渡をするを相当とする。論旨は結局理由があり、本件はその余の上告趣意に対する判断をまたずこの点において原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

裁判官井上登、同栗山茂、同河村又介、同小林俊三の意見は次のとおりである。

弁護人上田誠吉の上告趣意第三点及び第四点について。

昭和二五年六月二六日附及び同年七月一八日附連合国最高司令官の指令は、アカハタ及び連合国最高司令官によってアカハタの同類紙又は後継紙と認定された出版物を、編集、印刷、頒布又は運搬し若しくは頒布の目的を以て所持することを禁止する趣旨を含んでいる。被告人はこの指令の趣旨に違反して占領目的に有害な行為をしたものであるとの理由によって昭和二五年政令第三二五号一条、二条一項により処断せられたのである。

昭和二五年政令第三二五号は、昭和二〇年勅令第五四二号に基き制定されたいわゆるポツダム命令であって、連合国最高司令官の指令の趣旨に違反する行為等を処罰することを規定するものであるが、右勅令第五四二号が憲法外において法的効力を有していたことは当裁判所の判例(昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日言渡大法廷判決)の示すとおりであるから、従ってまた右政令第三二五号も、たといその内容をなす指令に憲法違反の部分を含んでいても、占領期間中は憲法にかかわらず全面的に有効であったことを認めなければならない。しかしながら占領終了によって日本が独立を回復し、憲法がその効力を完全に発揮するに至った後においては、憲法違反の法規の存在を容認することはできないから、これを有効な国法として存続させることができるかどうかはこの観点から厳正な検討をしなければならない。

思うに占領が終了し、連合国最高司令官の地位がなくなり、従ってその指令も指令に対する服従義務もなくなったからといって、平和条約発効後は、右政令第三二五号が当然全面的にわが国法として存続する内容も効力ももち得ないということはできない。すなわち右政令第三二五号の内容となっている指令といっても、単に連合国又は占領軍の利益のためにのみ発せられたものばかりではなく、わが国の秩序を維持し公共の福祉を増進するために発せられたものも存在する。このような内容をもつ指令は、連合国最高司令官から発せられたというだけの理由で、これを内容とする政令第三二五号がわが国の有効な国法となり得ないとはいえない。従って指令の内容において合憲なるものは平和条約発効後においても、その指令のかぎりにおいてわが国は右政令第三二五号をわが国法として存続させることはその自由とするところである。そこで昭和二七年法律第八一号は、昭和二〇年勅令第五四二号に基く命令は、別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、平和条約効力発生の日から一八〇日間に限り、法律として効力を有する旨を規定したのであるから、この中に含まれる政令第三二五号もその内容とする指令が合憲なるかぎり、右法律により有効なわが国法として存続することになったのである。

また右政令第三二五号の定める罰則は、禁令の具体的内容を右政令自体に定めているのではなく、時に応じて行われる最高司令官の指令等をその基本とするのであるから、かかる不確定が存続するかぎりこれを国法とすることは多くの疑義が存するところであるが、すでに平和条約発効と同時に既存の指令等はそのまま確定し、右政令が当時仮りに白地法規の性質をもっていたとしても、その空白はすでに充足せられたのであるから、指令等が合憲なるかぎりこれをわが国法として存続せしめることを防げる理由とならない。

そこで本件被告人が違反したと認められた前記指令の内容が合憲であるかどうかを考えて見るに、憲法二一条は基本的人権として言論の自由を保障し、殊にその二項は明らかに検閲を禁止している。検閲とは公表されようとする言論に対して、官憲がこれを事前に審査しその容認するもののみの公表を許すことである。しかるに前記指令は、アカハタ及びその同類紙又は後継紙について、これを掲載されようとする記事が国家の秩序を紊り又は社会の福祉を害するというような理由の有る無しを問わず、予じめ全面的にその発行を禁止するものであり通常の検閲制度にもまさって言論の自由を奪うのであるから、憲法二一条に違反するものであることは明らかであって、右政令第三二五号もまたこの指令に対する違反を罰するかぎりにおいて憲法に違反するといわなければならない。従って占領中は政令第三二五号により右指令の趣旨に違反した行為として処罰されなければならなかったとしても、占領終了し日本国憲法が完全にその効力を発揮することになった後においては、裁判所は憲法違反の法規の効力を容認することはできないから、右政令第三二五号は前記指令を適用するかぎりにおいて、わが国のこれに関する立法の如何にかかわらず(すなわち法律第八一号によっても)平和条約発効と同時にその効力を存続せしめることができないものと断じなければならない。

さらに昭和二七年五月七日公布と同時に施行された法律第一三七号は、その二条において右の政令第三二五号を廃止し、その三条において「この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」と定めている。しかし憲法違反の故にすでに効力を失っている法規を有効なものとして復活せしめようとする規定は、そのかぎりにおいて違憲であるから、右三条も前記指令に関するかぎりその効力を生ずるに由なきものである。また右の政令第三二五号に限時法として効力を認めようとする説は、憲法違反の故に失効した法規を限時法の理論によって存続させることは不可能であるから首肯することはできない。

以上述べたように、政令第三二五号は前記指令に関するかぎり平和条約発効と共に失効したのであるから、それ以後は右指令の趣旨違反を理由として処罰することができなくなったのである。されば本件は原判決後の法令により刑の廃止があった場合に準ずべきものと解するのを相当とする。或は刑の廃止には国家意思の表示が必要であって、本件の場合前記法律第一三七号は明らかに「従前の例による」という規定を置き、刑の存続を認めているという説があるけれども、憲法は国の最高法規であるから、憲法の条規に違反する罰則は立法があったからといって、その効力を有することができないことは憲法九八条で明らかである。

よって本件は原判決後に刑の廃止があった場合にあたるからその余の上告趣意に対する判断をするまでもなく原判決及び第一審判決を破棄し、被告人を免訴すべきものである。

裁判官河村又介の補足意見は次のとおりである。

私の意見は大体前掲のとおりであるがなお次の点を明らかにしておきたい。

旧憲法下において制定された法令については、それが一旦法的に有効に成立したものである以上、新憲法に定めるところとは異なった機関や手続によって制定されたものであっても、その法令の定めている内容が新憲法下で許されないようなものでない限り、当然無効とはならない。憲法九八条一項はこのように解すべきであること、すでに曽て述べたとおりである(最高裁判所昭和二五年(れ)第七二三号、同二七年一二月二四日大法廷判決における補足意見参照)。右の法理は本件の政令第三二五号のように憲法施行後制定された法令についても同様であって、その規定している内容が憲法に違背しない限り、平和条約発効によって憲法が全面的に効力を発揮するようになったからとて、当然に効力を失う筈はない。従って昭和二七年法律第八一号は、この当然の事理を前提として、右の政令の有効期間を平和条約発効後一八〇日間に限ったものであって、本来平和条約発効と共に消滅すべき筈であったものがこの法律によって始めて存続することになったのではないと解する。

裁判官田中耕太郎、同霜山精一、同斎藤悠輔、同本村善太郎の本件についての意見は次のとおりである。

弁護人上田誠吉の上告趣意第一、二点並びに第四点について。

昭和二〇年勅令五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものであること、連合国最高司令官は降伏条項を実施するためには、日本国憲法にかかわりなく、法律上全く自由に自ら適当と認める措置をとり、日本の官庁職員及び日本国民に対し指令を発してこれを遵守せしめることを得るものであること、されば、同勅令は、日本国憲法にかかわりなく、同憲法施行後も同憲法外において法的効力を有し、従って、同勅令に基く政令三二五号もまた無効といえないこと、並びに、右勅令にいわゆる「特ニ必要アル場合」とは、所論のように日本政府が法律案を作りこれを国会に提出するいとまがないような場合を指すものでなく、従って、同政令が同勅令所定の要件を具備しない無効なものといえないことは、すべて当裁判所大法廷判決の趣旨に照し明らかなところである(昭和二四年(れ)六八五号同二八年四月八日宣告大法廷判決中弁護人森長英三郎の上告趣意第二点、第三点についての判断参照)。それ故、前記勅令並びに政令を無効であるとする論旨第一、二点並びに論旨第四点中右政令所定の指令の一つである本件アカハタ及びその後継紙並びに同類紙の発効停止を命じた最高司令官の指令が憲法一九条、二一条に違反するとの点は、いずれも採用することはできない。なお、平和条約が発効したからといって、右指令が憲法に反するか否かを判断すべきでないことは、論旨第三点についての説明によって了解すべきである。

同第三点について。

本件第一審判決の確定したところによれば、被告人の本件犯行は、昭和二六年一月二日頃から同年同月二五日頃までに行われたものであるから、被告人の所為は、前論旨に説明したとおり、右犯行当時法的に有効に存在した昭和二五年政令三二五号一条に違反し、同二条一項に該当すること明白であって、被告人は、同条項所定の処罰を免れないものといわなければならない。しかるに、所論は原判決後に刑の廃止があったから免訴の判決をなすべき旨を主張する。

しかし、刑訴四一一条五号にいわゆる「判決があった後に刑の廃止があったこと」とあるのは、刑訴三三七条二号にいわゆる「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき。」と同義であって、犯罪後の法令により、積極的に明示又は少くとも黙示を以て既に発生、成立した刑罰権を特に放棄したとき、すなわち、特にこれを廃止する国家意思の発現あったときを指すものである。なぜなら、罪刑法定主義を採用した法治国においては、犯罪者が行為時法によって処罰されるのは当然の約束であって、行為時法によって既に発生、成立した刑罰法規の効果である刑罰は、その後における大赦又は法令に因って特に消滅又は廃止されない限り、存続するのは当り前であるからである。刑の廃止は、行為時法によって発生、成立した刑罰権の放棄であるから、行為時法により刑罰権が一旦有効に発生、成立した以上、行為の後その刑罰権を発生、成立せしめる原因となった法規が単に将来に向って廃止され又は消滅したからといって、既に発生、成立して終った既成の法律効果を同時に放棄、廃止する国家意思の表現がない限り、法律効果そのものが当然消滅する道理がない。ただ犯罪行為の後これを成立せしめた或る法規が廃止され又は消滅した場合に、その廃止又は消滅の理由が同時に立法者において既に発生、成立した刑罰権をも暗黙に放棄したと認むべき場合があるに過ぎないのである。特に犯罪後の立法によって或る刑罰法規を廃止した場合に、その廃止の理由が立法者の側における法的観念、刑法的価値判断に変更を生じ、従前認められていた刑罰法上の可罰性を認むべきでないとするような理由であるときは、その廃止と同時に既成の刑罰権をも暗黙に放棄したと推定するに過ぎないのである。これに反し、いわゆる限時法の場合、特にその立法と同時に予め法規失効後も失効前の違反行為に対し罰則を適用する旨の明文を設けた場合(昭和六年法律四〇号重要産業ノ統制ニ関スル法律附則参照)のように、法規の廃止又は消滅が、立法者の法的観念又は刑法的価値判断の変更によるものでなく、単に事情の変更乃至時間の経過に因るに過ぎないときは、法規の廃止又は消滅後も寧ろ立法者が既成の法律効果を放棄しない国家意思であると見るべきである。そして、本件政令三二五号占領目的阻害行為処罰令はその名の示すとおり初めから占領中のみに限り有効に存在し、占領の終了と同時にその効力を失うべき性格の政令であること論を俟たないから、いわゆる限時法に属するものと解すべきこと多言を要しない。

されば、本件政令の基本法である昭和二〇年勅令五四二号並びにこれに基く本件政令三二五号が原判決があった(昭和二七年四月二八日言渡)後、同日午後一〇時三〇分連合国と日本国との平和条約発効と同時に失効したとしても、既成の同政令二条一項の刑罰を廃止したと認むべき法令に因る明示又は、黙示の国家意思は認められないし(特に本件指令の趣旨に反する同令違反につき大赦がなかったことは顕著な事実である。)、また、同処罰令の前示のごとき限時法たる性格上刑罰を廃止したものと見ることもできない。しかのみならず、昭和二七年法律八一号、同法律一三七号の一連の法律は(同法律八一号が新らたな国内法律として有効であるか否かは別として)、却ってその刑罰を特に廃止しない旨の明確な国家意思を表明しているのであるから、所論刑の廃止の主張は、いずれの点から見ても採用できない。

なお、前述のごとく、刑の廃止は、行為時法によって有効に発生成立した刑罰権の放棄であるから、一旦有効に成立した刑罰権を特に放棄しない趣旨の立法は、畢竟刑訴三三七条二号若しくは四一一条五号のごとき訴訟法又は刑法六条のごとき例外規定が適用のないことを明確にした立法に外ならないのであって、一旦失効した刑罰法規そのものを失効後再び有効な法規としてこれを復活させるものでない。それ故、憲法三九条の事後立法又は二重処罰とは何の関係もない全く自由な立法政策上の問題であること多言を要しない。されば、前記法律一三七号就中同八一号を目して法律の内容として不可能なことを定めるもので違憲であるとの説又はすでに失効した罰則を復活させて事後において過去の行為に遡及適用せしめるものであるという説のごときは、法規そのものの将来に対する廃止又は失効とその廃止又は失効前に法規適用の結果発生した法律効果とを混同するものといわなければならない。また、既に平和条約発効前たる昭和二六年一月中有効に発生、成立した本件政令二条一項の犯罪の前提となる指令の内容が平和条約発効後において憲法二一条に違反するとの説は、裁判時において行為時法そのものが必ず存続していなければならないということを前提とするものであるが、限時法の場合に行為時法を適用するのは、一旦失効した刑罰法規そのものを失効後再び有効な法規としてこれを復活存続せしめることでないことは、前に説明したとおりであるから、その前提において既に失当である。仮りに該指令の内容が憲法二一条に違反していると仮定しても(後述のごとく、本件指令は、アカハタ及びその後継紙等が、日本の政党の合法的な機関紙ではなく、国外の破壊勢力の道具であるという事実を証明しているということに立脚しているのであるから、立法問題としては、要するに思想乃至表現の自由の問題ではなく、むしろ、一種の暴力である国外からの破壊活動そのものを内容としており、従って、国民の基本的権利に関する憲法一九条、二一条等違反の問題を生ずる余地のないこと明白である。されば、これを憲法二一条違反であるとの説は、前示指令の内容に全然副わない平穏無事な事実関係を想定しこれを前提とするもので、賛同できない。)それは、昭和二七年法律八一号が有効な法律とは認められないこと、従って、同法律によって新らたに処罰できないことを説明し得ても、既に右法律前発生、成立した本件政令違反に対する刑罰が放棄、廃止されたことの説明とはなり得ないこというまでもない。

同第五点乃至第八点について。

昭和二五年六月二六日附及び同年七月一八日附連合国最高司令官のアカハタ及びその後継紙並びに同類紙の発効に対し課せられた停刊措置に関する指令によれば、アカハタは、日本の政党の合法的な機関紙ではなく、日本国民の間に、特に今回は日本にいる多数の朝鮮人の間に、人心をかく乱して公共の安寧と福祉とを侵害することを目的とした、悪意のある、虚偽のせん動的な宣伝を広めるために用いられる国外の破壊勢力の道具であるという事実を証明していると認めている。従って、同指令は、アカハタ及び連合国最高司令官によってアカハタの後継紙又は同類紙と認定された出版物を、一般人に宣伝、播布するためにする一切の行為を禁止するものであって、その編集、印刷、頒布及は運搬若しくは頒布の目的を以て所持することをも禁止する趣旨を含んでいることは、同指令自体で明白である。そして、本件「平和のこえ」が右「アカハタ」の後継紙と認定された出版物であって、被告人がこれを知りながら直接又は間接的に頒布してその発行行為をしたものであることは、原判決の是認した第一審判決が証拠により適法に確定したところである。されば、所論第五点乃至第七点は、連合国最高司令官の指令の解釈又は原判決の認定を非難するに帰し、また、同第八点は、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴四〇五条の上告理由として採用することはできない。

被告人本人の上告趣意について。

昭和二五年政令三二五号占領目的阻害行為処罰令違反の内容をなす指令の解釈権は、連合国最高司令官にあったのであるから、原判決が本件「平和のこえ」がアカハタの後継紙であるか否かの認定権が連合国最高司令官及び最高司令官の委任を受けた法務総裁に存し、日本の裁判所にこれと反する認定をなす権限は存しない旨の原判決の説示は正当である。されば、所論第一点中この点に関する部分は採用できない。その部分並びに論旨第二点は、原判決の是認した第一審判決が証拠に基き適法になした事実認定を非難するか又は単なる訴訟法違反の主張であって、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。次に、所論第三点のように昭和二七年四月二八日平和条約の発効により本件政令三二五号が効力を失っても、免訴の事由とならないことは、弁護人上田誠吉の上告趣意第三点について説明したとおりであるから、同論旨も採用できない。なお、所論第四点は、違憲をいうが具体的条文を挙示しないし、また、政治的不法弾圧であるというだけでは、原判決に対する適法な上告理由と認め難いから、これまた採用できない。

よって、刑訴四〇八条により本件上告は棄却すべきものである。

斎藤裁判官は、本件につき次の意見を附加する。

刑法六条は、実体刑法上犯罪行為時法を適用するのが当然であって、新法を遡及適用すべきでない原則に対し、犯罪者に対する恩恵上一大例外をみとめたものであるから、その立法趣旨に照しこれを狭く厳格に解すべく、広く類推して解釈すべきでないことはいうまでもない。同条は、その法文上明らかなように、単に、「犯罪後ノ法律ニ因リ刑ノ変更アリタルトキハ其ノ軽キモノヲ適用ス」と規定して犯罪行為時法の刑が犯罪後の法律に因り変更されたときに限り規定したに止り、ドイツ旧刑法二条二項のように犯罪の時から判決言渡の時までの間いやしくも実体刑法規定の変更があったときは、犯罪者に最も有利な結果を生ずべき一切の規定を適用する趣旨の立法ではない。すなわち、刑法六条は、犯罪者の犯罪行為成立(即時犯)又は完結(継続犯)後判決言渡までの間において、その犯罪者の行為規範の違反に対し科すべく予定した法律効果を規定した法規(実体刑法各本条)に変更を生じたときは、本来罪刑法定主義の建前からすれば、行為当時の刑罰を科すべきであるのに、立法者の犯罪者に対する量刑観念の変化に伴う寛大な立法意思の表現である最も軽い法律効果を規定した法規を適用すべきものとして、特に軽き刑を規定した新法の遡及効(すなわち軽き事後法の適用)又は既に失効した最も軽き刑を規定してあった中間法の復活適用を認めたに過ぎないものである。従って、同条は、ドイツ刑法二条a二項後段のように行為当時の刑罰法規が判決言渡の時に廃止され又は消滅した場合に、その法規を適用しないで無罪たらしめるという趣旨の実体刑法規定ではなく、また、かかる場合に、刑訴三三七条二号にいわゆる「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき」と類推解釈すべき訴訟法規定でもない。従って、わが刑法六条を免訴の根拠規定とすることのできないことは、いうまでもない。

次に、本件被告人は、その犯罪行為の時から、少くとも昭和二七年四月二八日平和条約発効までの間有罪であったことについては、裁判官全員一致の意見である。そして、真野、小谷、島、藤田、谷村、入江六裁判官の免訴説は、その余の裁判官の賛同しないところであり、また、井上、栗山、河村、小林四裁判官の免訴説は、前記六裁判官の免訴説とその理由において相容れないものであって、右四裁判官以外の裁判官の賛同しないところである。されば、右二個の免訴説は各独立した少数意見であって、本件は合議の本質上上告棄却の裁判あったものと考えざるを得ない。

裁判官真野毅の補足意見は冒頭他の五裁判官とともに述べた意見の外次のとおりである。

棄却説(田中、霜山、斎藤、本村各裁判官意見)は、刑訴四一一条五号及び刑訴三三七条二号にいわゆる刑の廃止というのは、「犯罪後の法令により、積極的に明示又は少くとも黙示を以て、既に発生、成立した刑罰権を特に放棄したとき……を指すものである」と言い、さらに「刑の廃止は、行為時法によって発生、成立した刑罰権の放棄であるから、行為時法により刑罰権が一旦有効に発生、成立した以上、行為の後その刑罰権を発生、成立せしめる原因となった法規が単に将来に向って廃止され又は消滅したからといって、既に発生、成立して終った既成の法律効果を同時に放棄、廃止する国家意思の表現がない限り、法律効果そのものが当然消滅する道理がない」と論じている。

この考え方は、わたくしの考え方とは正反対で、全くうらはらになっている。すなわち、棄却説では、刑罰放棄の廃止があっても、犯罪後の法令により明示又は黙示ですでに発生し刑罰権を特に放棄する意思の表現がない限り、刑の廃止による免訴には当らないとするのである。これに反し、わたくしは、刑罰法規の廃止があれば、明示又は黙示による反対規定がない限り、刑の廃止による免訴の規定が適用さるべきだと考えるのである。

刑法六条は、「犯罪後ノ法律ニ因リ刑ノ変更アリタルトキハ其軽キモノヲ適用ス」と規定し、刑訴三三七条二号は、「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき」は、判決で免訴の言渡をしなければならない旨を規定し、また刑訴四一一条五号は、「判決があった後に刑の廃止若しくは変更」があったときは、判決で原判決を破棄することができる旨を規定している。これらの諸規定は、それぞれ実体面と手続面から定められたものではあるが、互に密接な関連があるから総合して統一的な解釈を打ち立てることを要するわけである。憲法の原則となっている罪刑法定主義からいえば、犯行後に制定された刑罰法規を適用して、人を処罰することは許されない。犯罪者に対しては、犯罪時に現存する刑罰法規を適用して、処罰すべきものであるということになる。これでもって、恣意・専断による処罰は堅く禁ぜられ、各人の基本的人権は、安泰に擁護される仕組みである。ところが、犯罪後裁判時までの間に刑を定めている刑罰法規の変更よって、刑が軽く変更される場合がある。そうなると、その変更後の同種犯罪者に対しては、軽い刑を定めた新刑罰法規が適用されるのに比し、従前の犯罪者に対しては、重い刑を定めた旧刑罰法規が適用されるという不権衡が生ずる。かかる不権衡を取り除き一視同仁に、公平に、従前の犯罪者に対しても、軽い新刑罰法規を適用するように定めたのが、前記刑法六条の趣旨である。すなわち、刑法六条は、公平処罰の見地から、被告人の利益のために罪刑法定主義と密接な関係を有する行為時法主義(不遡及の原則)の一つの例外を定めたものである。ここに公平の意義について注意すべき大切なことは、従前の犯罪者を、刑の変更後の犯罪者との比較において、公平に軽く処罰する趣旨であって、従前の犯罪者ですでに裁判の確定した者(重い刑を受けた者)との比較においては、公平に重く処罰するのではなく、却って不公平に軽く処罰される結果となることを、法は十分承認しているのである。裁判手続が早く済んだ被告人は重く罰せられ、たまたま裁判手続が遅れた被告人は軽く罰せられる点だけを捉えてみると、それは不公平なばかりでなく不合理であることは勿論であるが、それにも拘わらず、法は、裁判未確定の被告人の利益のために敢て軽い刑を適用するとしたのである。この意義において、立法者の恩恵といっても、寛容の精神といっても、法の仁愛といっても、また法の慈悲(マーシー・オブ・ロー)といってもよい。

さて、刑の廃止について前述刑法六条の適用があるか否かについては、多少の議論はあるが、刑の廃止は、同条にいわゆる刑の変更の最も軽い極限に当るわけであるから、当然に同条の適用を見るものというべきである。刑法六条の「刑ノ変更」の中には、狭義の刑の変更と刑の廃止(刑訴四一一条五号)を含むものと解するを相当とする。(刑の廃止には、刑の変更の刑法六条の精神を類推するというのは、いささか文字に捉われた感がある。また刑の廃止は変更とは質が異るから、同条の適用がないというのは、あまりに観念的な物の考え方である。共に賛同することを得ない)。そこで、刑の廃止があった場合には、もはや刑罰法規は存在しない法律状態となったのであるから、前に述べた公平・恩恵・寛容・仁愛・慈悲の精神によって、従前の犯罪者も処罰されないこととなるのである。この場合、他の法律に特別の規定が無ければ、無罪とすべきか、あるいは免訴とすべきかは、多少問題として疑問を残したであろう。しかし、刑訴三三七条二号(旧刑訴三六三条二号)は、明文をもってこの疑問に解決を与えるため、「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき」は、判決で免訴を言渡すべきものと規定したのである。刑法六条の実体法的規定と刑訴三三七条二号の訴訟法的規定の関係は、右のような意義に解するを相当とする(かりに、刑の廃止の場合には刑法六条の適用がないとの説によっても、裁判時法により刑が廃止された場合には、従前の犯罪に対して刑罰を科すべき理由はなく、刑訴三三七条二号によって免訴されるわけである)。

つぎに、犯罪後の法令で刑が廃止されたに拘わらず、第一審又は控訴審が誤って免訴判決をしなかった場合には、法令違反として上訴の規定に従って上訴審において審判される。さらにまた、第一審又は控訴審の判決後に刑の廃止があった場合には、その判決自体にはそれがために法令違反はないけれども、原判決破棄の事由とされているのである(刑訴三八三条二号、四一一条五号)。その立法の趣旨は、被告人の利益のために公平の見地から設けられたものであって、前に述べた刑法六条の立法趣旨と全く同じものであると言うことができる。

上述のとおりであるから、将来に向って刑の廃止があれば、特に明示又は黙示による反対規定がない限り、従前の犯罪者は刑の廃止後の同種の行為者との対比において、公平な処理となるように免訴されるものというべきである。そして、刑の廃止の場合に、立法技術としてしばしば用いられているところの、かの「旧法(令)廃止前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」といった風の規定が、まさに前記明示による反対規定に当るわけである。

そこで棄却説なるものについて検討してみよう。(一)棄却説は、刑罰法規が廃止されても行為時法によってすでに発生した刑罰権は、特に明示又は黙示によって放棄する意思の表現がない限り、消滅することなく従前の犯罪に対しては処罰ができるというのであるが、それなら従前の行為に対し罰則の適用については従前の例によるというような規定は、全然無意味で、これを設ける必要はないということになる。これは、一般の考えに反することは、あまりにも明瞭である。(二)前に述べたとおり刑法六条等一連の規定は、将来に向って刑罰法規が廃止された場合には、その法律状態の下における同種の行為者との対比において、公平に取扱われるように従前の犯罪者を免訴するというのが、立法趣旨であるのに、棄却説は、将来に向って刑罰法規が廃止されても、従前の犯罪に対する刑罰権の放棄が、明示又は黙示により表現されない限り、免訴にはならないと説いている。この説は、その根本において、刑法六条などの立法趣旨を全く誤解しているのではあるまいか。(三)棄却説は、「刑の廃止は、行為時法によって発生、成立した刑罰権の放棄であるから」とまず自ら定義し、従前の刑罰法規が将来に向って廃止されたからといって、既に発生した法律効果を放棄する意思の表現がない限り、従前どおり処罰すべきだと説いている。しかし、わたくしをして忌憚なく言わしむれば、かかる定義自体がおかしい。いわば、結論を導き出すのに都合のよいように、定義を作りあげて、これを前に据え置いたという感じがする。刑の廃止とは、棄却説の定義しているようなものではなく、前に述べたごとく刑を定めている刑罰法規が廃止(もちろん失効を含む)されること、すなわち将来に向って効力を失うことを意味する。かように将来に向っては処罰できない法律状態となるから、それとバランスをとり公平になるように、従前の犯罪者を免訴するというのが、刑法六条などの立法趣旨であることは何度もいったとおりである。棄却説は、この立法趣旨を全く理解していない嫌いがある。(四)棄却説は、従前の犯罪に対し発生した刑罰権は、特に明示又は黙示によるその放棄の規定がない限り、刑の廃止による免訴をなすべきでないとしているが、かように、従前の犯罪に対する刑罰権を放棄する法律が設けられる場合には、大赦令による大赦と同様なことが、その法律によって行われると見るべきものである。普通の大赦令による大赦は、政令に基いて行われるが、前記の場合は、法律に基いて赦免が行われるという差があるだけのことであるから、この場合には大赦に関する刑訴三三七条三号及び四一一条五号後段の規定が適用さるべきであり、従って刑の廃止に関する刑訴三三七条二号及び四一一条五号前段の規定は適用さるべきものではないのである。この意味において、棄却説は、法律による赦免と刑の廃止による免訴とを混合する過ちを、犯しているものと言わねばならぬ。(五)棄却説は、さらに理由として限時法理論を持ち出して来ている。これは明らかにその主張の前段と矛盾したことになる。いわゆる限時法説なるものは、刑の廃止があっても免訴をせず、従前の例によって処罰するというのであって、刑の廃止による免訴の一例外を認めるために案出された刑法理論である。それ故、刑の廃止を認めないところには、限時法理論を適用すべき余地は全くないわけである。それだのに、棄却説は、前段の説明においては、刑の廃止はないのだといい、後段の説明においては、限時法に属するといっているのは、前後矛盾する理由を主張する誤りがあると言わねばならない。(六)ドイツでは、施行期限を限定して制定された一八七八年のビスマルクの社会主義者法が、期限を経過して失効した後に、一八八五年ライヒス・ゲリヒトがこれを適用して従前の犯罪者を処罰した。それ以来限時法の理論は、刑法学界において順次盛んに論議せられ、限時法の認否及びその理論的根拠ないし限時法適用の範囲等について、種々雑多な学説が展開せられ、甲論乙駁真に帰趨するところを知らなかった。この状態を立法によって解決しようとして、一九〇九年の第一次予備草案が出来て以来、幾度も委員会が更改せられその都度別の草案が作られていったが、最後に一九三五年六月二八日の法律で刑法二条aの規定が設けられ、その三項において限時法は一定の施行期間を定めた法律に限られることを明定した。これで、四分五裂というか、七花八裂というか、むしろ百鬼夜行の観がないでもなかった限時法理論には終止符が打たれたのであった。それから四年も経過して、ドイツでは限時法理論の妖怪が白日の下影をひそめた頃になって、わが国では昭和一四年三月草野氏が、臨時馬の移動制限に関する法律の適用に関し昭和一四年一〇月一九日に刑の廃止による免訴を言渡した大審院判例の批評として、独乙旧法時代出版のビンデングやフランクの限時法説を引用して、むしろおそるおそるとでも言った態度で、この事案には限時法の観念を適用して「こそ、始めて能く取締の目的を達成し得るのではあるまいか」と論じた。その後、日支事変、太平洋戦争の非常時下において、「取締の目的を達成」する便宜のため限時法理論は、学説及び判例に採り入れられ、相当放漫に流れて行った感がする。旧憲法下のことは知らないが、新憲法下における裁判所の真の使命は、そんな「取締の目的を達成」する便宜のために、法を解釈し又は刑法理論を構成することでなくして、ただ法を適正に運用して国民の基本的人権を擁護することに重点がある、とわたくしは考えるのである。「取締の目的を達成」し得るためには、用意周到な立法こそが大切であるとさるべきである。そして、わたくしは、数年前のいわゆる限時法事件において、限時法に関するわたくしの考えを述べておいたが(判例集四巻一〇号一九八三頁以下)、その考え方は、今日においても変りはない。わたくしは、法律の実施につき一定期間を限定している場合にのみ限時法を認めるものである。その以外には限時法を認むべき必要もなく、またこれを認めるのは妥当でない。従前の行為を処罰する必要があれば、一挙手一投足の労で立法上の手当をすれば事足りると考える。(七)かりに限時法(ツアイト・ゲゼッツ)を前記のごとく法律の実施につき一定期間を限定している場合に限らず、いわゆる臨時法(テンポレーレス・ゲゼッツ)の場合をも含むものと解するとしても、本件のごとき法律状態の大変革の場合に当って、限時法の理論を駆使することは許されない。わが国が受諾したポツダム宣言一二項においては、「前記目的が達成せられ、かつ日本国民の自由に表明した意思に従って、平和的傾向を有する責任ある政府が樹立された場合においては、連合国占領軍は速かに日本国から撤収さるべきであろう」と定めているのであって、占領の終了は、時間的に確定期限又は不確定期限がつけられているというのではなく、単に前記条件(この条件の成就したか否かは一に連合国の主観的判断にかかる)がつけられている極めて不確定なものである。従って、占領目的のためにする立法を、臨時法として限時法中に取込むこと自体に余程の疑問があるべきである。この点はしばらく措くも、占領中において、政令三二五号の指令違反行為の処罰規定は、憲法外の法的効力を有しただけのものであった。占領終了後においては、どこにも憲法外の法的効力を認むべき根拠はなくなり、憲法のみが完全な支配力を及ぼす法律状態となった。かかる法律状態の下においては、将来に向って指令違反行為は発生する余地もなく、これを処罰する従前の規定は当然失効し、またかかる処罰規定を設けても違憲無効であることは明白である。しからば、これと対比して占領中に犯された従前の指令違反行為につき、前に述べた刑法六条等の立法趣旨である公平・寛容の見地から、刑の廃止による免訴の取扱いをすべきは当然ではあるまいか。また占領下において政令三二五号で犯罪とされた従前の行為の犯罪性及び可罰性は、占領終了と共に当然消滅すべきものである。憲法が完全に支配する時代となった後においても、従前の行為に対し限時法理論を借り来って従前どおり処罰しようとする棄却説の見解は、ただに限時法の不当な拡張による濫用であるばかりでなく、全く憲法の重さを十分に理解しない議論だといわなければならない。憲法は、限時法の理論よりは遥かに重い。憲法に違反する従前行為処罰を、限時法の故をもって許容することはできない。(八)最後に、昭和二七年法律八一号は、勅令五四二号に基く命令は、昭和二七年四月二八日から起算して一八〇日間に限り、法律としての効力を有する旨を定めている。政令三二五号は、この勅令五四二号に基く命令に当るから、この法律八一号によって一八〇日間法律としての効力を有するものとされた。その意義如何がいささか問題である。(い)法令廃止の場合に、従前の行為を従前どおり処罰しようとするときは、「旧法(令)廃止前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」というような立法技術を普通一般に用いることに慣例化されている。法律八一号は、政令三二五号についてかような立法技術は用いなかった。それ故、これとは違う意味に解すべきであろう。(ろ)そうすると、法律八一号は、政令三二五号については、指令を含まない白地刑罰法規そのままの形で、その他のポツダム命令と同じように将来に向って一八〇日間は法律としての効力を有せしめようとしたものと解するの外はない。そうだとすると、占領終了後は指令もなく、指令違反行為も発生存在することは不可能であるから、これを処罰しようとする法律八一号は無意義であって、違憲無効であることは明らかである。かくのごときは、政令三二五号の有する特殊性(指令違反行為を処罰するという形式的内容)を顧みず、その他の一般ポツダム命令と一括して一律にただ単に法律としての効力を、法律八一号が与えたことから生ずる当然の結果である。(は)そこで、法律八一号は、概括的に勅令五四二号に基く命令を一八〇日間法律として延命する旨を規定したが、政令三二五号の関する限りにおいては、従前の行為に対して従前の例によって処罰するという意義を有するもと解すべきだとの見解も生じて来る。そう解するとしても、従前の例によるという規定の意義は、従前の行為に対する相対的関係においては、当該法令を廃止しないで、そのまま存続せしめるという趣旨に解すべきものである(昭和二四年(れ)六八五号、同二八年四月八日言渡大法廷判決中の真野裁判官意見参照)。それ故、かかる法律は、占領終了後は憲法に違反すこととなり当然失効するものであって、到底その効力を保持することはできない。その詳細は他の五裁判官と共に述べた意見のとおりである。だから、法律八一号は、政令三二五号に関してはいかなる意義に解しても、違憲無効であると言わねばならぬ。棄却説が、この無効な法律八一号を援用しているのは、全く無意味の業である。

これを要するに、以上いずれの点から検討してみても、棄却説はついに理由なきものであると論断せざるを得ないのである。

裁判官井上登の補充意見。

私の意見の要領は栗山、河村、小林三裁判官と連名で書いたとおりであるが、その後他の裁判官たちの意見書を見たのでそれについて少しく書きたい。

先ず真野外五裁判官の意見は、私には少しはっきりしない処がないではないが、要するに、昭和二七年法律第八一号(以下単に八一号と書く)が個々の指令(昭和二五年政令第三二五号によって適用される指令をいう、以下同じ)を法律化したものならば、個々の指令についてその内容が違憲なりや否やを判断しなければならないが、八一号は個々の指令を法律化したのではなく、右政令第三二五号(以下単に三二五号と書く)を法律化したものである。そして右政令は指令に違反する者を罰することを内容とするものであり、指令は司令官が占領目的を達成するが為め発するものであるから、占領という事実がなくなった以上指令も「占領目的に有害な行為」というものも存在せず、従って指令違反者を占領目的に有害な行為をした者として罰するということはあり得ないというにあるらしい(「不可能なことを定めるものであって結局憲法に違反する」というのはわからない)。しかし占領という事実がなくなっても日本が自由な立場において新たに法律を以て、既に発せられ内容の確定して居る指令(内容が違憲のものでない限り)に違反した者を罰することとするのは少しも差支ない(六裁判官のいうようにあり得ない事でもないし、違憲でもない)。占領目的という語は従来占領自体を目的とし『占領目的に有害な行為』とは占領の妨となる行為というような意味に用いられたこともあるけれども、そうでなく如何なる目的のために日本を占領するかというその目的例えば「日本を民主的な平和国家にする為め」といったような意味にも用いられたのであり、その目的のために発せられた指令もあり得るのであるから、かかる指令に違反する者を三二五号によって処罰することは占領終了後においても少しも差支ないわけである。八一号が三二五号に法律としての効力を持たしめたのはこのことを考えて居るものと見るの外ない。三二五号自体は、いわゆる白地刑罰法規ともいうべきものであってそれだけでは何等の働をもなすものでなく、その空白部分を充足する個々の指令と合せて考えるにあらざれば意味のないものである。そして裁判所が或る法令が違憲なりや否やを考えるのは具体的の事件においてその法令を適用すべきや否やについて考えるのであるから本件においては八一号によって法律化せられた三二五号によって本件の指令を適用して被告人を処罰することが違憲なりや否やを考えなければならないのである。そして八一号を以てしても内容違憲の指令を適用することを是認することは許されない処であるから(憲法九八条)右指令の内容が違憲なりや否やを考えなければならないのである。右の外栗山、河村、小林三裁判官と連名で書いたとおりである。

以上の如く私たちの意見は真野外五裁判官の意見と異なるのであるが三二五号によって本件指令違反者を罰することは憲法違反でありわが国独立後は許されざるに至った(右六裁判官の意見は三二五号は全面的に適用されざるに至ったというのであるからその中に本件の場合も含まれること勿論である)ものであって、刑の廃止に準ずべきものとする点において私たちの意見と前記六裁判官の意見とは同じであり両者を合して裁判所の多数意見となるものである。

次ぎに本件指令によれば、或る出版物が一行政機関である法務総裁によって、アカハタの同類紙又は後継紙なりと認定されただけで、その出版物の編集者、印刷者、頒布者、運搬者等はその出版物に現在に書いてあることが少しも害のないことであっても罰せられるのである。われわれはこのことが憲法の条項に反するものとするのであって田中外三裁判官の意見書にあるような「人心をかく乱して、悪意のある、虚偽のせん動的な宣伝を広める」ような記事を書くのを禁ずることが憲法違反だというのではない。なお右四裁判官は刑訴四一一条五号、同三三七条二号等は「特にこれを廃止する国家意思の発現あった時を指すものである……」云々といって本件指令の内容が違憲であるとしても本件は免訴すべきものではないというけれども、本件指令の内容が違憲であるとすれば国家の最高意思である憲法において既にこれを適用して処罰することを許さない旨の意思が表示されて居るものといわなければならない。占領中は憲法にかかわらず司令官の権力によって該指令が有効とされ、違反者が罰せられて居たのだけれども、かかる権力がなくなり憲法が最高意思となった以上その時からその意思に従うべきは当然である。それ以外更に「国家意思の発現」などを要しないことは勿論、たとえ立法機関が法律をもって反対の意思を表示してもそれは無効である。それ故司令官の権力がなくなり、憲法の右の意思が働くようになったことを以って前記各法条にいう「刑の廃止」と同様に取扱うべきものとわれわれは考えるのである。

裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。

別項他の三裁判官と共にした意見においてその要領は示されているがなお私かぎりの意見を補足する。

一、先ず政令第三二五号(以下単にこの政令又は本件政令という)と平和条約発効との関係について附け加えておきたい。この政令は、もし法律第八一号のような立法的措置がとられなかったとすれば、平和条約発効という事実によってどうなるかといえば、私は、この政令の特異の性質上、同時に当然失効すべきものであったと考える。同じことをくりかえすことになるが、この政令の対象となる違反行為は、連合国最高司令官の指令(以下単に指令という)が本となっているから、平和条約発効によって占領状態が締結し、わが国が独立して憲法が全面的に効力を発動した後においては、指令に対する服従義務を前提とするこの政令の効力がなお存続し、その罰則が有効に適用されると解すべきなんらの理由もないからである。しかしこの政令の性質から出て来るこの結論は、この政令の内容となる指令との関係において、わが国が独立後独自の意思により改めて国法として存続させることができるかどうかの問題とは自から別である。すなわち指令の内容が合憲であれば、その指令が充足されるかぎりにおいて、この政令をわが国法として存続せしめることはわが国の自由であること別項意見に示されたとおりである。法律第八一号はこの趣旨に解すべきであって、この政令に関するかぎり、憲法に適合する指令と不可分の関係において平和条約発効後もその効力を存続するに至ったのである。かく解することは、法律第八一号とこの政令との関係をもって事後立法とすることにはならない。この政令は、平和条約発効までは憲法にかかわりなく有効な国法であったのであるから、平和条約発効と同時にこの政令につき、その内容を充足する指令の合憲なるものにかぎり、その効力を有権的に存続せしめることに外ならないからである。

二、なおこの政令の特異な性質上、法律第八一号はこの政令自体に法律としての効力を与えたのであって、従来存する各指令の内容そのものに法律としての効力を与えたものでないという説について一言したい。この政令は、指令が内容を充足することによってはじめて刑罰法規として働く力をもつものであるから、この政令自体にのみ法律としての効力を与えるということは意味のないことと思われる。また、占領下において種々の点で相当に不確定であった指令も、平和条約発効と共にそれまでに発せられたものは特定したということと、以後はもう発せられることがないということを考えれば、この政令は、特定した各指令をその内容に充足した形においてまとまった法規となったと見るべきである。従って法律第八一号は、この政令が合憲な指令を充足した形において法律としての効力を与えたと解するのが相当である。それゆえ、この政令の内容となる指令がきわめて広く、いかなる事項いかなる内容であるか不明瞭であり、法律の内容として不可能なことを定めることとなるから憲法に違反するという理由は生じない。

三、次に犯罪後の法令により刑が廃止されたときというのは、明示又は黙示によって、すでに発生成立した刑罰権を特に放棄する国家意思の発現があったときを指すのであるという説に関連して述べておきたい。

ここにいう、法令により刑の廃止があったときとは、犯罪後(刑訴三三七条二号)というも、判決があった後(同四一一条五号)というも、いずれも行為時の後であることは同じであって、一たん刑罰権が発生成立した後であることに変りはないが、結局その刑罰権といえども由来する法令を離れて生ずるものでなく、またその法令の運命が説の分れるところでもあるから、先ずその法令自体について考察しなければならないことはもちろんである。しかるに法令の効力を定めるにあたっては、法治国においてはその法令が合憲であるか否かがすべてに先行する要件であるから、既成の法律効果を放棄廃止する国家意思があったかどうかの問題も、先ず基く法令自体が合憲か否かの問題を離れてはあり得ないと共にさらに法秩序全体の構造から考えなければならないことである。そこで法令が合憲であることはすべてに先行するという立場をとる以上、裁判時においてその法令が違憲であって効力をもち得ないとすれば、立法の如何にかかわりなく、その法令の罰則は効力を生ずるに由なく、これを刑訴の定める刑の廃止と見るの外ないのである。従ってまた既成の刑罰権に基く法律効果も違憲法令に由来することとなる結果、立法の如何にかかわりなく効力を生ずることはできないのである。けだし、くりかえせば、法令が合憲であるということは法治国における至上の要請だからである。要するにこの問題は、論者のいう明示又は黙示の国家意思は裁判時における憲法の効力を越えることができるかどうかということに帰着すると考えられる。

これについてなお理由を少し加えれば、(一)前記の説に従えば、わが国が独立を回復したことと、憲法が全面的に効力を発動したことが、本件について法律上格別の意義をもたないことになるであろう。いうまでもないが、わが国は法治国として自主的地位を回復し、立法についても法令の解釈適用についても、占領期間中の一切の制約から解放され独自の見地に立ってこれを行う能力を回復したものであるから、改めてこれらの法令につきわが憲法の条規に従って自主的検討を行う本来の地位に帰ったのであり、またかかる責務を生じたのである。これらの事実が本件の政令についてなんら価値がないと考えることはできない。また、憲法が全面的に効力を発動するに至った結果、すべての法令はわが憲法を本源としてその精神を展開する使命をもつとともに、これに違反することを許されないこととなった事実を認めるならば、本件の政令についてこれらの事実が、論者のいわゆる既成の法律効果より劣位に立たなければならないという理由も考えられない。(二)また平和条約発効によってわが国が占領状態を脱して独立したことは、同時に連合国最高司令官の地位がなくなりその指令に対する服従義務も消滅し、基本的人権を司法的に保障することを重要な使命とする憲法が全面的に効力を発動するに至ったことである。その結果憲法に照合してこの政令の内容を充足する指令が違憲なるかぎり効力を生ぜず刑の廃止があった場合に当ると解せられることは、仮りに論者の説に従っても、その廃止の理由が立法者の側における法的観念、刑法的価値判断に変更を生じ、従前認められていた刑罰法上の可罰性を認むべきでないとする理由がある場合に当るべく、従って当然既成の刑罰権を暗黙に放棄したと推定される場合にも当ると解するのが相当である。(三)さらに右の説に従えば、最高裁判所は違憲審査権を行うにあたり、本件の政令については、当然「裁判時において効力を有する」憲法に従ってこれを審査することを要しないばかりでなく、これに従うことを許されないという趣旨をもつのであろう。しかし本件の政令が占領下において有効な国法であったと解するのは、いずれの説も一致するように「憲法にかかわりなく」効力を有していたと解するのであるから(各意見引用大法廷判決参照)、平和条約発効と同時に法律第八一号によりその効力を存続せしめる立法があった後においては、新たなる裁判時における憲法上の審査を免れる理由は考えられない。前に述べた、法令が合憲であることは法令の解釈適用の上においてすべてに優先する要件であるということは、最高裁判所が違憲審査を行う時において考えなければならない事項であると思う。論者に従えば、既成の刑罰権に基く法律効果は、その基く法令が後に違憲であることによって左右されず専らこれを放棄する国家意思の有無によって定まるのであるから、かかる国家意思を認める解釈が生ずることによって、違憲審査権は、裁判時において違憲の法令をなお適用する結果に対し手を触れることができないこととならざるを得ない。

いずれにしても、既成の法律効果に対しこれを放棄する国家意思の有無は、その効果の由来する法令が裁判時において違憲であるという事実を越えることはできないと考える。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎)

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